仮想通貨を買いました(その2)

こんにちは、ちょびです。

 

2018/1/16~17に大暴落した仮想通貨ですが、18日は少しずつ戻しています。

ただ私は、二度目の暴落に耐えられず、一部を損切りしました。現在は、

3割 消失、4割 仮想通貨、3割 現金

保有しています(ひどい成績ですね)。

あまりの下げ具合に、「このまま仮想通貨は終わるのか?」と正直終わりました。

回復していると言っても、前日の安値ぐらいに戻しただけですので、今後もどうなるかは分かりません。

ただ、今回の一件で分かったことがあります。

ビットコイン以外の仮想通貨(アルトコインと呼ばれます)は、現金以外にビットコインで売買されることも多いため、その価値がビットコインを通して換算されます。

そのため、ビットコインの価格が下がると、自動的にアルトコインの価格も下がります。

今回、どのコインから売られ出したのかは分かりませんが、ビットコインが売られたために、アルトコインが全て値下がりすることとなりました。ここ二日ほどは、主要な仮想通貨はほぼ同じ値動きをしています。これは、ビットコインに連動して価格が上下したためです。

ブログ作成時点(2018/1/18 9am)で、1ビットコインは120万円を超えています。これが再度150万円をうかがってくれば、アルトコインの値上がりも期待できます。120万円が上値となれば、大きな上昇は期待できないでしょう。

今回は年末年始の新規参入者(私もそうですが)によって、価格が暴騰したフシがあります。このため、大口から大量の売りが入り、価格を下げました。暴落に慣れていない新規参入者は、恐怖の余り損切りをして(私もこれです)、売りが売りを呼ぶ展開となったようです。昨年秋までに始めている人は、暴落時でも元金が確保できているため、むしろ好機と見て買った人も多くありました。その結果、保有コイン数を大きく増やしたようです。

相場を正しく理解せず、ただ何となく買った人が、損をして退場した、というのが今回の暴落の結果だったように思います。

 

また、「仮想通貨の価値は、現実的には0円である。」という人が結構います。これは事実ではありますが、仮想通貨の全てを表すものではありません。

例えば、特許は発明(アイデア)を保護するための制度ですが、特許自体に価値があるわけではなく、そのアイデアを使いたい人がいて、初めて価値が出ます。そういった意味では、特許も現実的には0円です。

仮想通貨はアイデアをプログラムという形にしたものですので、アイデアそのものと言っても過言ではありません。そこに価値を見いだすかはどうかは使う側に依存します。

また、極端な話をすれば、金(ゴールド)も通常の貨幣も本質的な価値は怪しいものです。食品や住居、衣服と違い、人間が生きていく上で原始的に必要なものではありません。ただ、交換が発達した現在において、交換に便利である、という理由で利用されている側面が強いと思います。

そういった意味では、仮想通貨も「交換に便利である」という側面で、一定の価値があります。ただ、それと現在の価格が一致しているかについては、疑問もあります。実際にここまで価格が上下しては、交換に不便だからです。

仮想通貨をオランダのチューリップバブルに例える人がいますが、チューリップは現在も一定の価値を有しているます。そう考えると、仮想通貨という概念も、いつか我々の生活に根ざした存在になるのかもしれません。もっとも、その時はもっと穏やかな値動きになると思いますが。

仮想通貨を買いました

こんにちは、ちょびです。

 

先日、仮想通貨を買いました。

すると今日(2018/1/17)、大暴落しています。(ToT)

もちろん、余剰資金でやったので、「見る目がなかった」の一言であきらめられるのですが、やはり自分が理解できないものに手を出してはいけないのですね。

今は投資した額の1/3ぐらいがなくなっています。一時は半分近くまで減ったのですが、少しだけ持ち直しました。

購入した仮想通貨は、イーサリアムイーサリアムクラシック、ネムの3種類です。

スマートコントラクト、という技術が将来的に役に立つだろうと思ったのですが、それと仮想通貨が高騰するのとはあまり関係がないのかもしれません。

さて、今後仮想通貨はどうなるのでしょう?この暴落前は「まだまだ上がる」という人が少なくありませんでした。以前から仮想通貨を持っている人も含み益があるのでまだ余裕のようです。私のように最近参入した人があまりの下落ぶりに我慢できずに手放しているのかもしれません。それと、海外の規制に関するニュースも下落に大きく影響しているようです。

これだけ下がれば買いが入る(事実、一時はもっと下がっていました)ので、投資した金額が完全になくなることはないのかも知れませんが、投資がしたいのなら、普段からちゃんと情報収集をして、対象をよく理解してからするべきだと思いました。

しばらくは保有するつもりですが、どうなるかは全く分かりません。

 

人間ドックに行ってきました

こんにちは、ちょびです。

 

新年1回目の記事ですが、先日、人間ドックに行ってきました。

私の大学では、保健組合が補助を出してくれるので人間ドックに行く人が一定数います。私も家の近くの人間ドック専門の医療機関に行ってきました。

人間ドック自体は何度か行ったことがあるのですが、今回は初めて胃カメラを受けてきました。今まではずっとバリウムだったのですが、①バリウムを飲んでゲップを我慢するのがつらい、②バリウムでは小さな病変がわからない(らしい)、③もし異常が見つかれば、結局胃カメラを受ける、と言うことを聞いて、今回は胃カメラにしてみました。

さて、最近は口からではなく鼻からカメラを入れるタイプが主流ということで、私も鼻からカメラを入れてもらったのですが、鼻の穴(手前ではなく奥の方)が狭いのか、かなり痛かったです(もしかしたら麻酔が足りなかったのかも知れませんが)。激痛!ではないのですが、正直勘弁して欲しい、独特の痛みでした。検査が終わった後も2時間ほど痛みが残りましたし、その日は一日中調子が悪かったです。

反対に、喉の方は特に苦しいこともなく(少し麻酔を追加してもらいましたが)、スムーズでした。ただ、なんとか会話はできても、画面を見る余裕はなく(鼻が痛いので)、時折口からよだれを垂らして先生の言うことに答える、ぐらいしかできませんでした(先生の「画面見られますか~」に軽い殺意を感じました)。

全ての結果は3週間後だそうですが、とりあえず胃カメラでは特に問題も見つからず、ほっとしています。

 

それでは、今年もよろしくお願いいたします。

メンタルが弱い

こんにちは、ちょびです。

 

私は上司のパワハラで体調を崩して、降格・異動したのですが、それ以降どうもメンタルが弱くなったような気がします。詳しくはこちらを。

パワハラと降格 - ちょびののぞき窓

具体的には、他人から否定的な意見が出ると変に緊張する、怒られているような気がする、というものです。人間、生きていれば意見の違いはあって当然ですから、否定されることもあります。ただ、それが最近、妙に気になるのです。怖い、という言い方が正しいでしょうか。実際に怒られているわけではないはずですが(怒られたらもっと記憶に残るはずですから)、何か「怖い」のです。メンタルが弱くなっているのでしょう。

メンタルが弱くなっているのが原因かは分かりませんが、ちょっとしたことで子供を怒ることも多いように思います。おそらく、心の余裕がないのせいなのでしょう。

表面上は問題ないのですが、時々否定的な考えが頭に浮かび、以前よりもずっと長く留まります。また、ちょっとしたことも大きな不安に感じることも多くなりました。急にほくろがガンに思えたり、子供のちょっとした症状も重い病気の前触れに感じたり。

実際は、病院に行って杞憂であると分かるのですが、分かるまでは、また分かった後も心の中でモヤモヤしたものが残ります。

現在かかっている心療内科の医師には、「一度メンタル不全になった人は、昔よりも弱くなっているので気をつけるように」と言われています。確かにそうかな、と思います。メンタルを崩してから、自信もなくなったように感じます。

 正直、毎日が少しずつ大変です。とても大変、ではないのですが、ぼんやりとした霧の中にいるような、何の目印もない広い大地をあてもなく歩いているような、そんなぼんやりとした不安感、焦燥感が毎日頭の中にあります。

このままでは、何かの拍子に調子を崩しかねないと思い、メンタルを鍛えようと思っています。ただ、メンタルはダンベルを持ち上げたり、ルームランナーで走ったりして鍛えられるものではないので、まずはそういう関係の本を読むことにしました。

Amazon 平常心を鍛える 自衛隊ストレスコントロール教官が明かす「試練を乗り切るための心の準備」

著者は、自衛隊のメンタル担当教官だそうで、戦場や災害現場などの過酷な環境で働く隊員のメタンル教育などを行っていたとのことです。

自衛隊員の環境と比べれば、仕事で受けるストレスはそこまで過酷ではありませんので、この本を通じてメンタル的な強さ、自分への自信を取り戻せたらと思っています。

また読み終えたら、感想を載せたいと思います。

優秀なマネージャーの少ない日本の組織

こんにちは、ちょびです。

 

特に根拠があるわけではないのですが、日本の組織は総じて優秀なプレーヤーが多い割りには、ちゃんとしたマネージャーは少ないように感じます。

日本の、特に製造業の強さは現場の強さ、とよく言われますが、それは現場に優秀なプレーヤーが多く、いい加減なマネジメントでも職責を十二分に果たしているからではないかと思います。

日本人は真面目ですから、決められたことはきっちりこなします。自分勝手な判断をせず、自分の行動が他の人にどんな影響を与えるかもちゃんと考えています。

ただ、その反面、ルール自体を作成する、他人を管理する、自分で(特に痛みを伴う)決定をする、ということは苦手なように感じます。

これらはマネージャーの仕事ですが、こういうことが苦手な人が多いので、どうしても前例踏襲だったり、周りの顔色を見て判断したりと、マネジメントとしてはあまりよろしくない対応をしてしまうのではないでしょうか。

 

私の組織もご多分に漏れず、優秀なプレーヤーはたくさんいますが、優秀なマネージャーには会ったことがありません。優秀なプレーヤーが管理職になり、無能なマネージャーになる、というのはよくある話です。ピーターの法則では、人は有能な限りは出世して、無能になった段階で出世が止まる、と言われています。

ピーターの法則 - Wikipedia

ただ、これと日本の現状はちょっと違う事情だと思います。そもそも、プレーヤーとマネージャーは求められる能力が異なります。事務処理に長けているからといって、人を使うことに長けているとは限りません。名選手、名監督にあらず、ですね。日本人はあまりマネージャーに向かない性格なのかもしれません。

 

私は将来、ベンチャーや小さい会社の組織運営をしてみたいと思っています。もちろん、今のままでは難しいので、知識や経験を増やしていく必要があると思っています。

ただ、優秀なマネージャーとは?と調べてみても、なかなか明確な定義がありません。おそらくマネジメントにはいくつかのスタイルがあり、自分にあったスタイルでマネジメントをすることが重要なのだと思います。

その一方で、マネジメントに必要な基本のスキルもあると思います。傾聴やコーチング、プロジェクトマネジメント、ロジカルシンキングなんかは、基本のスキルになるのど思います。

プロジェクトマネジメントは、やはり実際の経験が重要かなと思うので、今後はプロジェクトのリーダーを経験できればと思っています。

人工知能(AI)と仕事の未来

こんにちは、ちょびです。

 

最近、なかなか話題がなくて更新できていませんでした。

特に面白い話題ができたわけではないのですが、最近読んだ本が面白かったのでその話をしたいと思います。

その読んだ本というのは、「人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの(松尾豊 著)」です。

人工知能(AI)の歴史、現在の状況、今後の展望が分かりやすく書かれていて、初心者が理解するのにとても良い本だと思いました。

その中で、「機械学習」と「ディープラーニング」が出てくるのですが、この辺りが私はずっと分からなくて、この本を読んでなんとなく理解することができるようになりました。

ディープラーニング機械学習の一形態なのですが、機械学習では「特徴量」を人間が指定し、これを基にAIが個別の問題の特徴量から、もっともそれらしい答えを導き出します。この特徴量というのは、一種の目印であり、例えばネコなら「目が二つ」とか、「ヒゲがある」とか、「耳が三角」とか、そういう外形的特徴です。今までの機械学習はこういう特徴量を人間が設定し、それを基にAIが判断してきました。そのため、どういった特徴量を設定するか、ある種職人技のような技能が必要でした。

これに対してディープラーニングでは、特徴量をAI自体が設定します。詳しい理論は私にも理解できていないのですが、どうも、情報を一旦圧縮して元に戻す、という行為が鍵のようです。情報を一旦圧縮すると、情報量が減ります。この圧縮時に、大事な情報が欠落してしまっては元に戻りません。そこで、大事な情報は温存して、元に戻す際にあまり重要でない情報を省略する必要があります。AIはこの作業を何度も行い、何が大事な情報なのかを学びます。この大事な情報が、今まで人間の設定していた特徴量にあたるようです。特徴量とはつまり、その情報の根幹をなすもの、いわゆる「概念」なのです。ディープラーニングはAIが自分でものの概念を獲得した、という点で極めて画期的な技術だったのです。

概念が理解できれば、手書きの字でも判読できるようになりますし、入室してきた人が誰かを判断することができます。

 

2016年6月、GoogleはAIが自力でネコを認識した、と発表しました。

ニュース - Google、大規模人工ニューロンネットワークを用いた研究成果を紹介:ITpro

このニュースをお聞きになった方と多いと思います。これはGoogleがAIにYoutubeの画像を見せ、その中でAIがネコの概念を獲得した、というニュースです。

ちなみにディープラーニングが世界的に有名になったのは、2012年のILSVRC(大規模画像認識競技会)で、ジェフリー・ヒントン率いるトロント大学のチームが、今まで26%程度だったエラー率を、一気に17%程度にして優勝した出来事でした。この時に使われた技術こそディープラーニングであり、ジェフリー・ヒントンは現在、トロント大学Googleの両方で働いています。

ディープラーニングはAIが自分でものの概念を獲得するという点で、画期的な技術ですが、これで全ての問題が解決するわけではありません。画像は概念として理解しやすいものです。子供も最初に獲得する概念は具体的な物です。これに対して、私たちの周りにある概念はもっと抽象的です。言葉の概念、行動の概念、思考の概念などは、そもそも特徴量を設定することが非常に難しいものです。そのため、そのような概念を理解し、人間のような知能を持ったAIが登場するのはかなり先だと思われます。

では、人間のような知能でなければ、AIは知的ではないでしょうか?AIはすでにいくつかの分野で人間よりも「知的」な存在です。盤上ゲームでは人間に勝つAIがすでに登場していますし、そもそも電卓は人間が計算するよりずっと正確です。こうした特定の分野に秀でたAI(電卓はAIとは呼びませんが)はすでに世界中に存在しています。こうしたAIが未来の仕事の形を変えることになるのでしょう。

具体的にはどんなことが起きるのでしょうか?まず、ルールベースといわれる手法があります。これは、「AならばB」「CならばD」というルールを人間が設定し、そのルールに合わせて機械に判断させる方法です。ルールが明確な場合、これで十分機能するため、定型的な業務は代替可能と考えられます。

ただ、ルールベースはルール自体を人間が設定するため、ルールが大量にあったり、ルール同士が矛盾したりするとうまく機能しません。これに対して機械学習は、特徴量は人間が設定しますが、それを元にルールをAIが設定するため、膨大な量のルールが存在する場合や、そもそも人間がルール自体を理解できていない場合にも利用可能です。ある一定の判断基準で、その都度対応する中間管理職的な業務なら代替可能かもしれません。

ディープラーニングは概念自体を理解していますので、ほぼ人間のような判断ができます。それを大量に、高速に行うのですから、普通の人間では太刀打ちできません。ただし、ディープラーニングは新しい概念を作り出すことはできませんので、そういった創造的な仕事では人間が行う余地があります。ただし、人間と同じように概念を理解できるのはまだまだ先のようですので、当分はこのような心配は必要ないと思います。

私たちの未来の仕事はどんなものでしょう。おそらく伝票を眺めながら入力し続ける仕事(データ入力作業)やレジ係(単純な接客業)は、減っていくのだと思います。また、専門知識が必要だが、一定のルールで行う仕事(銀行の融資担当やトレーダー)も絶対数は少なくなっていくでしょう。

逆に対人的な仕事やAIと協調して行う仕事は、今後ますます重要になっていくのだと思います。

皆さんの仕事にはどんな未来が待っているでしょう。

責任感の違い

こんにちは、ちょびです。

 

先日、英語の先生に日本語の「責任」という言葉に対する英語が非常に多いという話を聞きました。いくつか挙げてみると、

responsibility(結果に対して負う責め)

charge(権限がある)

fault(失敗、落ち度)

blame(失敗に対する非難)

commitment(契約上の責任)

accountability(法的な説明責任)

liability(返済の責任)

duty(道徳的な責任)

など、かなりありますね。

これは日本と英語圏での「責任」に対する考え方の違いを端的に表したものだと思います。言葉が細かく分類されるということは、それぞれが異なった背景を持ち、異なった意味で使われるということです。これに対して、日本では「責任」の守備範囲がかなり広く、

1 立場上当然負わなければならない任務や義務。

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。

3 法律上の不利益または制裁を負わされること。

(goo国語辞書より)

言葉の定義が曖昧ですね。

 

日本では個人と組織の責任が混同される場面もしばしば見受けられます。

例えば、あなたが店員だとして、あなた以外の店員が起こした失敗にあなたは謝りますか?おそらく、相手がお客さんなら謝ると思います。でも、よく考えればあなたは失敗していません。あなたが失敗した人の上司なら監督責任がありますが、そうでないならなぜ謝るのでしょうか。それは、個人と組織の責任が混同されているからだと思います。店員の失敗は組織の失敗ですから、組織の一員であるあなたは個人としてではなく、組織として謝罪しているのです。

これは聞いた話ですが、海外の食堂でオーダーが違うと抗議したら、間違えた人はその対応をしましたが、隣にいた店員はお客に「間違われて大変だったね」と話しかけたそうです。日本なら、「どうも申し訳ありません」と謝る場面でしょう。

海外では、失敗は個人の責任です。もちろんその個人に対して監督責任がある組織や上司にも責任はあると思いますが、個人の責任がきちんと問われます。

これに対して、日本では責任の所在をあまり明確にしません。仕事でも現場で書類を作成し、会議で検討し、上司が決裁して物事が決まります。これでは、失敗したときに、どこに責任の所在があるのか分かりません。

日本のように国土が狭く、同質性の高い国では、摩擦を少なくするために協調を大切にしています。そのため、責任の所在をはっきりさせて摩擦を起こすより、みんなで決めてみんなで責任をとるスタイルを好むのだと思います。

このスタイルでは、個人は相手(顧客など)に対して責任を負っているというより、所属する組織に対して責任を負っています。これが拡張されると、日本人は日本というコミュニティーに責任を負っていることになるため、社会的に非難されるような行動を慎む、秩序を重んじる国民性につながっていくのだと思います。

秩序を重んじる国民性は、例え東日本大震災のような大規模災害においても、秩序を持って行動する、といった行為につながっていると考えられます。

ただ、日本人はもう少し個人の責任と向き合った方がよいのではないかと思います。

個人の責任は個人の義務とつながります。個人の義務は個人の権利とつながります。組織の責任ばかりに目が向かうと、組織の権利が重要視され、個人の権利がないがしろにされる可能性があります。

私はパワハラのために適応障害になりましたが、そのことを正しく本人にも組織にも抗議できませんでした。個人として主張すべきことは主張する、それができなかったことは今も後悔しています。

その一方で、私以外の人も同じ職場でパワハラに悩みながら仕事をしていると聞き、組織の理屈、組織の権利だけが幅をきかせ、一方で個人は組織の義務、組織の責任を背負わされていると感じます。

組織の中での責任も大切ですが、まずは個人として当然の権利があるべきではないでしょうか。

ただし、個人の権利は個人の義務を果たした人に認められるべきであり、義務も果たせない人間が自分の権利ばかり声高に叫ぶのは、間違った個人主義だと思います。

何事もバランスが大切だと思いますが、もう少し個人の責任と権利に目を向けるべきではないでしょうか。