責任感の違い

こんにちは、ちょびです。

 

先日、英語の先生に日本語の「責任」という言葉に対する英語が非常に多いという話を聞きました。いくつか挙げてみると、

responsibility(結果に対して負う責め)

charge(権限がある)

fault(失敗、落ち度)

blame(失敗に対する非難)

commitment(契約上の責任)

accountability(法的な説明責任)

liability(返済の責任)

duty(道徳的な責任)

など、かなりありますね。

これは日本と英語圏での「責任」に対する考え方の違いを端的に表したものだと思います。言葉が細かく分類されるということは、それぞれが異なった背景を持ち、異なった意味で使われるということです。これに対して、日本では「責任」の守備範囲がかなり広く、

1 立場上当然負わなければならない任務や義務。

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。

3 法律上の不利益または制裁を負わされること。

(goo国語辞書より)

言葉の定義が曖昧ですね。

 

日本では個人と組織の責任が混同される場面もしばしば見受けられます。

例えば、あなたが店員だとして、あなた以外の店員が起こした失敗にあなたは謝りますか?おそらく、相手がお客さんなら謝ると思います。でも、よく考えればあなたは失敗していません。あなたが失敗した人の上司なら監督責任がありますが、そうでないならなぜ謝るのでしょうか。それは、個人と組織の責任が混同されているからだと思います。店員の失敗は組織の失敗ですから、組織の一員であるあなたは個人としてではなく、組織として謝罪しているのです。

これは聞いた話ですが、海外の食堂でオーダーが違うと抗議したら、間違えた人はその対応をしましたが、隣にいた店員はお客に「間違われて大変だったね」と話しかけたそうです。日本なら、「どうも申し訳ありません」と謝る場面でしょう。

海外では、失敗は個人の責任です。もちろんその個人に対して監督責任がある組織や上司にも責任はあると思いますが、個人の責任がきちんと問われます。

これに対して、日本では責任の所在をあまり明確にしません。仕事でも現場で書類を作成し、会議で検討し、上司が決裁して物事が決まります。これでは、失敗したときに、どこに責任の所在があるのか分かりません。

日本のように国土が狭く、同質性の高い国では、摩擦を少なくするために協調を大切にしています。そのため、責任の所在をはっきりさせて摩擦を起こすより、みんなで決めてみんなで責任をとるスタイルを好むのだと思います。

このスタイルでは、個人は相手(顧客など)に対して責任を負っているというより、所属する組織に対して責任を負っています。これが拡張されると、日本人は日本というコミュニティーに責任を負っていることになるため、社会的に非難されるような行動を慎む、秩序を重んじる国民性につながっていくのだと思います。

秩序を重んじる国民性は、例え東日本大震災のような大規模災害においても、秩序を持って行動する、といった行為につながっていると考えられます。

ただ、日本人はもう少し個人の責任と向き合った方がよいのではないかと思います。

個人の責任は個人の義務とつながります。個人の義務は個人の権利とつながります。組織の責任ばかりに目が向かうと、組織の権利が重要視され、個人の権利がないがしろにされる可能性があります。

私はパワハラのために適応障害になりましたが、そのことを正しく本人にも組織にも抗議できませんでした。個人として主張すべきことは主張する、それができなかったことは今も後悔しています。

その一方で、私以外の人も同じ職場でパワハラに悩みながら仕事をしていると聞き、組織の理屈、組織の権利だけが幅をきかせ、一方で個人は組織の義務、組織の責任を背負わされていると感じます。

組織の中での責任も大切ですが、まずは個人として当然の権利があるべきではないでしょうか。

ただし、個人の権利は個人の義務を果たした人に認められるべきであり、義務も果たせない人間が自分の権利ばかり声高に叫ぶのは、間違った個人主義だと思います。

何事もバランスが大切だと思いますが、もう少し個人の責任と権利に目を向けるべきではないでしょうか。