自分の人生を生きる
こんにちは、ちょびです。
もやしもん、という漫画をご存知ですか?
主人公の沢木直保は肉眼で菌が見える大学生で、その能力のせいか、彼は人と若干距離を置いて接しているように見えます。
彼は室町時代から続く種麹屋(日本酒等を造るために必要な麹を育てる仕事)の次男ですが、長男(沢木直継)が実家を継がずに家を出てしまったため、父親から家を継げと迫られています。直保は、兄(直継)が家を継がなかったために自分にお鉢が回ってきたことに怒りにも似た不満を感じ、アメリカで兄に会った時に色々と文句を言っています。
さて、ここからが私がとても気に入っているシーンなんですが、兄は弟(直保)に、「家を継ぐのが嫌なら逃げ出せばいい。自分の世界の中心は自分だ。」と言い放ちます。
とても当たり前の話ですが、人は誰も他人の人生を歩むことはできません。憧れの人の真似をしたとしても、それはそういう自分の人生です。そして、自分の世界の中心は、本当は自分のはずなんです。でも、私たちは様々なしがらみに縛られて、他人の世界の端っこで振り回されて生きています。
直継は、「自分はどこにいても自分だ。自分の世界の中心は自分だ。」と言いました。
私にはそれが、「自分の人生を生きていますか?あなたは好きに生きていいんですよ。自分の世界の中心はあなたなんですよ。」と言ってくれたように思えました。
私はパワハラのせいで体調を崩し、今は降格した状態で働いています。
それまで私は、仕事は一生懸命やって当然、出世は人生の大きな目標の一つ、と考えていました。
しかし、パワハラで体調を崩し、自分に非がないのに降格した今は、どうして仕事は一生懸命やらなければならないのか、出世は本当に「人生」の大きな目標なのか、と疑問を抱くようになりました。
私のパワハラの原因となった上司は部長で、大学では通常の事務職員がなれる最上位です。ただ、この部長は学内でも有名な問題児で、何人もの部下をメンタル不全に追いやっています。
こんな人間が最上位になれる組織は良い組織なのでしょうか。そんな組織で出世することは本当に人生の大きな目標なのでしょうか。そして、こんな人間のためでも一生懸命働かないといけないのでしょうか。
この一件で、私の価値観は大きく揺らぎました。その後ずっと、自分とは、仕事とは、生きるとは、ということを考えてきました。
その後に至った結論の一つは、家族は私の味方だが、職場は私の味方ではない、というものです。職場はしょせん、組織の維持が目的で、そこで働く社員は換えのきく、その他大勢でしかないということです。
そこで私は、可能な限り家族に時間を費やすようになりました。仕事は必要最低限にして、できるだけ定時で帰り、家事や育児に時間を充てるようにしました。
ただ、最近は家族のため「だけ」に生きるのも少し違っている、と感じるようになりました。家族のためにお金を稼ぎ、家事をし、自分の時間が全く持てないでいると、自分が何のために生きているのか分からなくなってきます。極論ですが、子供たちが今後も安定した生活を送れる保証があるのなら、自分はいらないのではないか、と考えることもありました。
でも、そんなの間違ってますよね。子供たちに必要なのは安定した生活ではなく、苦しくても、仲良く一緒に暮らしていく家族のはずです。
そんなことを色々と考えているとき、「自分はどこにいても自分だ。自分の世界の中心は自分だ。」と言ってくれた直継に、私は少し泣きそうになりました。
家事や育児で手を抜くわけではないですが、自分の世界の中心は自分なのだから、自分を押し殺して生きていく必要はないし、自分にも家族にも良い方法がきっとあるはずで、それを一生懸命探すべきだ、と思うようになりました。
自分の人生を生きるということは、家族のために自分を押し殺すことでも、自分の好き勝手に生きることでも、ましてや仕事にすべてを費やすことでもなく、家族と自分が力を合わせてより良い人生を歩んでいくことだと今は考えています。
まだ、具体的な方法が見えたわけではありませんが、向かう方向が分かったということは、私にとって大きな希望でした。
公務員はボケる?
こんにちは、ちょびです。
私は某国立大学に勤めています。
厳密には公務員ではありませんが、文書主義、前例踏襲主義、事なかれ、指示待ち、、、などなど、公務員そのままの仕事ぶりです。
また、労働組合があるものの、労働条件は国家公務員の人事院勧告に準拠するので、実際には機能していません。
そういった訳で、名実ともに公務員と何ら変わらないのが実情です。
さて、以前何かの記事で読んだのですが、公務員はボケやすい職業だそうです。
直観的にも理解できます。
自分で何も考えない、変化がない、スピード感もない、やる気もないし苦労もしない、、、。
いや、本当は色々と考えているんですよ。ただ、その向きがきわめて内向きなため、民間の人から見れば「??」となるんだと思います。
普通の会社でも、上司の顔色を伺いながら仕事をすると思いますが、あくまでお客さんありきですので、上司に逆らっても業績が良ければ文句が言えない、ということがあるかもしれません。
この点、公務員にはお客さんがいませんので、自分の評価は上司のみが行います。仕事は時間さえかければ誰でもできるものが大半ですので、上司に逆らって仕事をすることは困難です。上司が「これではダメだ」と言えば、書類は通らず、またやり直しとなります。
こんなことを繰り返すうちに、上司の気に入ることだけをする人間が出来上がります。
評価は直属の上司だけが行いますから、上司に好かれないと出世もできません。すると、上司に好かれるような人だけが出世していき、部下にも同じことを求めるようになります。
こうして、上だけを見る人を再生産しながら、組織は事なかれと非効率の沼に沈んで行きます。
タイトルに戻りますが、公務員はボケやすいと思います。
刺激が少ないんですよね。
認知症は記憶をつかさどる海馬の衰えが影響しているそうですが、前例踏襲、事なかれの公務員は記憶をフルに使う仕事とは言い難いです。
また、扁桃核も影響しているらしく、感情をあまり表に出さないことも認知症につながるそうです。
感情的な公務員、これは嫌ですよね。仕事の性質上、特定の人や事に強く思い入れてはいけないので(取り扱いが不公平になるので)、日頃から仕事ではあまり感情を表に出さないようにしています。こういうのも公務員がボケる要因なんでしょうね。
ボケないために、感情豊かに仕事をしよう!というわけにもいかないので、せめて沢山の本を読みたいと思います。
好きなことがない
こんにちは、ちょびです。
自分で言うのもなんですが、私はなかなか仕事はできる方だと思います。
昔の書類を眺めていればそこに何となく法則性が見えてきますし、事前にある程度のスケジュールを立てて計画的に仕事を進めることも比較的得意です。
結果、新しい仕事を任されても、「彼は自分でするから大丈夫」となってしまい、誰もやり方を教えてはくれません。
また、気が付けば一生懸命仕事をしてしまい、「今日は頑張らないでおこう!」と思ってもやっぱり頑張ってしまいます。
目の前に何かあると、反射的にやってしまうみたいです。
ただ、仕事は決して好きなわけではなく、朝は毎日ため息をつきながら出勤しています。
私にとって、一番大切なのは家族です。東日本大震災の時に、「自分にとって本当に大切なものはなんだろう?」と考え、以下の結論に至りました。
1.家族
2.健康
3.多少のお金
これだけあれば、たぶん大丈夫です。もちろん、欲しい物を数えればキリがないのですが、これだけあれば不幸ではありません。
これでそれなりに幸せ、としばらく思っていたのですが、最近は多少考えが変わりました。
もちろん、大切なものも順位も変わってはいないのですが、もう少し何かを望んでもいいのかな、と思っています。
物を欲しがればキリがないので、物以外の「モノ」が欲しいと思いだしました。
知識、経験、友人など、お金は必要ですがお金では買えないモノが最近は欲しいです。
ここでタイトルにつながるのですが、私には好きなことがないことに気が付きました。
好きなことがあれば、それを中心に欲しいものを考えればよいのですが、そもそも好きなことがないので、好きなこと探しからスタートです。
ただ、改めて好きなことと言われても、今までずっと我慢してきたので、自分が何を好きだったかわからなくなっていました。
では、何を我慢していたのでしょう?
子供が生まれる前(8年ほど前)は、仕事もバリバリ、友人としょっちゅう飲みに行って、仕事帰りにジムに行く、という生活をしていました。
お金はあまり貯まりませんが、周りにも認められるし、体調も良いしで充実していたと思います。
そんな生活も子供が生まれて一変しました。毎日可能な限り定時で帰り、飲みに行く回数も減らし、ジムも行かなくなりました。
とにかく家で子供を面倒をみる、そんな生活になったのです。
子供中心の生活では、大人は何かと我慢をします。
休みの日も子供の予定に合わせて、自分の服を見に行く時間もありません。
本屋をぶらぶらすることもなくなり、本を読むことも減りました。
お金だって、子供のことが中心になり、自分のための出費は控えるようになりました。
当たり前と言えば当たり前のことです。
親が欲しいと思って生まれた子供ですから、できることはなんだってするべきだと思います。
ただ、だからと言って自分の好きなことが思い出せなくなるのは、果たして健全なのでしょうか。
今は仕方ないですが、子供たちが大きくなれば、自分のために時間を使うことは自然なことです。
その時、自分の好きなことがわからない、思い出せない、というのはなかなか悲しいことだと思います。
時間ができたとき、子供以外に何もない自分にはなりたくないので、もう一度自分の好きなことを探したいと思います。
人に教えるということ
こんにちは、ちょびです。
私は現在、降格のため(詳しくは、パワハラと降格をご覧ください。)正式には部下がいないのですが、実際には派遣さんを指導するなど人に教えることもしばしばです。
今、来てもらっている派遣さんは、お世辞にも仕事ができる方ではなく、何かの仕事を頼むと必ず一定数のミスをしてくれます。それはもう、期待通り、と言った感じです。
こちらの指示を聞いていないわけではないようですが、3ステップぐらいの仕事を頼むと何回かに1回は1ステップ抜けている、という感じです。
私には小学2年生の息子がいるのですが、その子といい勝負では?と思ってしまいます。
いい大人がこれではもちろん困るので、契約の更新はないな、と思っているのですが、別のことも気になりだしました。
それは、「この人、もしかして大人のADHD?」ということです。
指示は聞いているが、実際にさせるとミスが多い。メモを取っているが、取っていることを忘れているよう。一度に複数の指示を出すと、何かを必ず忘れる。
来ていきなりバリバリ仕事ができるとは思っていませんので、それほど複雑ではない繰り返しの作業を依頼しているのですが、人の名前を取り違える、日付を間違える、記入箇所を間違える、などなど、事務仕事をする社会人としてそれはどうよ?というミスを一定の割合でしています。
私は自分の息子がちょっと注意力に欠けるため、ADHDのことを少し調べたりしたのですが、大人だと今回の派遣さんのようになるのでは、と思うようになりました。
こちらも仕事ですので、「使えない」の一言で片づける訳にもいかず、見たままで作業ができる手順書を作ってみたり、疑問に思えばいつでも質問するようにと言ってみたり、気を使ってはいるのですが、作業を完全に任せきることができないので、思ったほど仕事が捗りません。
仕事ができる人は、相手が勝手に学ぶので教えるのは簡単ですが、あまりできない人に教えるのは本当に難しいと思います。
特に、今回の場合は短期で契約を終了することが決まっているため、一生懸命教えても無駄になる、という思いもあり、なかなか頑張る気になれません。
私自身、教えるのは比較的好きな方ですが、教えた端から間違われると、さすがに凹みます。
教える喜びは、相手が「分かった!」と言ってくれることだと思うのですが、こちらの思ったように理解してもらえないと、教えるのもなかなか苦行です。
生活を変えたい
こんにちは、ちょびです。
大人になると、日々の仕事や子育てに追われて、新しいことを始める機会ってなかなかないですよね。
私も「何か変えたい!」と思いながら、普通の毎日に追いかけられて何も変えられないままここ数年過ごしています。
ただ、最近は「何かが変わるような、変えられるような気がする」という、根拠のない思いが浮かぶようになり、10年続けていたテニススクールをお休みすることにしました。
10年、長いですね。それだけスクールに通っていれば、かなり上達しそうなものですが、実際にはかろうじて球が返せる程度のレベルで、うまいとは程遠い感じです。
これだけやっても大してうまくならないのは、素質もやる気もそれほどなかったのだろうと自分なりに納得し、今回お休みすることにしました。
ほぼ毎週通っていましたから、いざ休むとなると、生活のリズムが大きく変わるのでしょう。金銭的にも余裕が出ますので、これを機に何か新しいことに挑戦できればと思っています。
私自身は新しい物好きで、今までも色々なものに手を出してきました。
テニス、バイク、車、お酒、英語、手品、プログラミングに簿記や知財検定などの各種資格取得、、、。
資格は2級までならそれなりに取得したのですが、1級は本気で勉強する必要があるため、挫折して取得できませんでした。
この中で長く続いたのは、テニス、バイク、英語です。テニスは10年スクールに通いましたし、英語は5年通っています。バイクは20年来の趣味になりますが、子供ができて以降はかなり縁遠くなっています。
英語は週一で5年スクールに通っているのですが、これまた全くと言っていいほど上達しません。長く通っても、本人に目的意識がないため、あまり身につかないのかなと思っています。
さて、では何を始めたらよいのでしょう?
これがまた、全くのノープランです。資格取得が趣味なので、最近は産業カウンセラーに興味があるのですが、事前に講習(6か月ほど)を受ける必要があるため、ちょっと腰が引けています。
できれば、仕事を辞めても続けられるようなものがいいなと思うのですが、なかなか「これは!」と思うものに巡り合いません。
ただ、時間とお金は少し余裕ができたわけですから、焦らずに色々と探してみたいと思います。
ちょっとは生活が変わるかな。
肩の力を抜いて働く
こんにちは、ちょびです。
私は昨年、パワハラで適応障害になってしまい、降格の上で異動しました。
ただ、比較的早く異動できたおかげで、そのあとは順調に回復し、またもとのポジション(係長)に復帰できるとの診断書をもらいました。
この診断書を書いてもらう際に、主治医に言われました。
「あなたは物事に正面から挑みすぎるのではないですか。もう少し受け流すようにしないと、また調子を崩すことになりますよ。」
以前、「責任感が強いのは損?」でも書いたのですが、私はどちらかというと責任感の強いタイプで何でも自分で処理してしまいます。
責任感が強いのは素晴らしいことだと思うのですが、肩の力を抜くことも時には必要なのかな、と反省しました。
私は今、先月退職した人の後始末に追われています。自分の業務はちょうど忙しくない時期でしたので、どうしようもない状況ではないのですが、仕事を押し付けられているな、いいように使われているな、という思いはあります。
そして、この前任者が未処理の仕事を大量に抱えていたため、何カ月も前の書類の対応をしています。
もちろん、仕事が未処理であることは私と全く関係ないのですから、ある程度割り切って処理するしかないのですが、何となく自分に非があるような気になって気分が落ち込みます。
おそらくこの辺の性格が、主治医に「物事に正面から挑みすぎる」と言われるゆえんかもしれません。
どうしたら肩の力を抜いて生きていけるのでしょう。
私の場合、性格的に仕事をしている間は肩の力が入ってしまうので、定期的に中断(休憩)を取ることにしました。それでも、幸い他の人と比べれば処理は速いので、業務が滞ることはなさそうです。
体調を崩しても思ったことは、家族の大切さです。仕事は大事だと思いますが、職場に私の代わりはいくらでもいます。でも、家庭に私の代わりはいません。家族にとって唯一人の父であり、夫であり、息子であることに改めて気付かされました。
人生を生きていると、大切なものは変わらなくても、優先順位が変わることがあると思います。仕事も大事ですが、私にとって大切なものは家族と健康であり、それ以外は妥協できることなんだと、今は思います。
これからは大切なものを見誤らずに生きていきたいと思います。
残業と評価
こんにちは、ちょびです。
夜遅くまで仕事を頑張っている人って、いますよね。私はあまり残業をしないので、そういう人を見ると「大変だな」と思います。
私の職場全体では残業は当たり前で、定時で帰る人の方が少ないです(子育て中の女性を除く)。なので、よく定時で帰る私は肩身の狭い思いをしています。
では、残業をしている人は「評価されるべき」なんでしょうか?
ここでちょっと問題になるのが、残業はあくまで労働時間の指標であって、業務量の指標ではないということです。仕事にかける時間が長ければ長いほど、たくさんの業務を処理しているように「見えます」が、実際の業務量はわかりません。
もちろん、ちゃんと仕事をしている人もたくさんいると思いますが、少なくとも私の職場では、残業自体が評価されて、時間当たりの処理量はあまり評価されません。
なぜこんなことが起きるのでしょうか?
これは私見ですが、今の上司たちが残業で評価されてきたからではないでしょうか。職場の評価方法は、基本的に今の上層部が決定します。今の上層部は自分が評価された方法を評価方法に採用しますから、昇進するのはやっぱり残業をする人たちです。
こうやって、残業が評価に直結する状況が受け継がれていくのではないかと思います。
では、これは適正な評価なのでしょうか?
私は残業を評価の主体にすることには反対です。これでは、小さい子供のいる人、介護の必要な家族のいる人などは評価されないことになってしまいます。
会社だって、高い残業代を払っているのだから、それなりの成果がなければむしろ損をしていはずで、残業をする人が一律に評価されるのが間違った方針なのは確かです。
私は小さい子供いるため、あまり残業はできません。でも、勤務時間中はそれなりの仕事はしていると思っています。
ただ、そういう頑張りはあまり評価されないので、最近は少し疲れてきてしまいました。人間、評価されないのに頑張り続けるのは、なかなか難しいものです。
別に給料を上げろとか、昇進させろとかまでは言わないので、せめて頑張っていることを認めて、評価して欲しいなと思います。